
【医学生として考察】強制不妊治療:近年まで合法だった強制不妊治療とその思想
先日、新聞を読んで知ったのですが、日本では1996年まで”強制不妊治療”が合法だったみたいです。今回は、そんな”強制不妊治療”とそれに関する”優生思想”について調べてみました。これら一連の問題は、考え始めると、とても一筋縄ではいかない難解な問題であることに気づきます。
強制不妊治療の実態
知的障害者や精神障害者に対して強制不妊治療を認めた「旧優生保護法」(1948~1996)にもとづいて、全国的に強制不妊治療が行われていたという。旧厚生省の衛生年報や毎日新聞の調べによれば、同意のないまま優生手術を受けた人は同法施行期間中、全国で1万6475人に上り、そのうち記録に残る最多は北海道の2593人で、次いで宮城県の1406人であった。また、同法には年齢の規定がなく、未成年者に対しても手術が行われていたという。最年少は男児が10歳、女児が9歳であり、多くの年度で11歳前後の子どもに対して手術がなされていた。
優生思想
そもそも、この旧優生保護法は1940年制定の「国民優生法」が前身であり、これはナチス・ドイツの優生思想にもとづいた「断種法」がモデルであるという。
優生学(優生思想)という概念は、1883年にイギリス人のゴルドンという学者によって提唱された。(ちなみに、このゴルゴンという人は、進化論で有名なダーウィンのいとこだそうです。)ゴルドンによれば、優生学とは、「人種の先天的質の改良」を目指す学問だという。つまり、”劣等”な子孫の誕生を抑制し”優秀”な子孫を増やすことにより、一社会あるいは一民族全体の健康を計ろうとする思想である。

今回の、強制不妊治療を認めた「旧優生保護法」の第一条は「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を予防するとともに、母体の生命健康を保護することを目的とする」であり、同法は優生思想にもとづいた法律であるといえる。
優生学は、福祉の発達によって、自然選択により淘汰されるはずの”弱者”が生き延びてしまうことで、人種の先天的質が悪化し、福祉コストも肥大化するという現象を防ぐために発展してきた科学といえる。
筆者が”強制不妊治療”の問題点の一つだと思うのは、国家が「強制的」に個人の生殖の自由に介入することによる人権侵害を犯したという点だと思う。ただ、—優生思想を特別に支持するわけではないが—よりマクロな視点で、”一国家や一社会の健康”はある程度管理されるべきであると思う。障害者が増加し続けることで、その分福祉コストが増加することは確かである。であるから、国家という観点から見たとき、国民の生殖をなんらかの形で管理したい考えるのは自然な流れであると思う。しかし、行き過ぎた優生思想は、今回のような”強制不妊治療”という、障害者たちの人権を無視した政策に行き着いてしまう。
出生前診断
出生前診断によって胎児に異常があると判明したとき、中絶を選択するという行為もある意味、この優生思想の発露だといえる。”強制不妊治療”はそれが「強制的」に国民に対して行われた点が問題であった。出生前診断を受けるカップルすべてが優生思想を意識しているわけではないだろう。あくまでも、「健康な子ども」を生みたいという思いから診断を受けるのであって、それは自発的な選択によるものである。
しかし、その選択が”真に自発的なもの”であると考えてよいかどうかは非常に難しい点であると思う。つまり、現状、障害児を産んで育てることが難しい”社会体制”や”社会全体の思想”によって、無意識的に個人の中に優生的な思想(=内なる優生思想)が発生している場合があるからである。
このような内なる優生思想がなるべく発露しないような社会体制や医療現場を考えていくことは重要なことであると思う。
今回のような問題は、その問題を誰の視点から見るのか?という点が重要であると思う。国家という視点から見れば、優生学的な思想にもとづいた政策を施したいと考えるのは自然なことであるし、逆に、問題の当事者である国民の視点から見ると、それが残酷な政策となってしまう場合もある。だから、両者の立場に立って、より中庸的な問題解決の方法を探っていくことが重要だと思う。